牧師の部屋から「友のために自分の命を捨てる愛」

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牧師の部屋から「友のために自分の命を捨てる愛」

牧師によるショートメッセージ。第19回は「友のために自分の命を捨てる愛」、聖書箇所は、ヨハネによる福音書15章13節、ローマの信徒への手紙5章7~8節です。

「友のために自分の命を捨てる愛」
聖書箇所:ヨハネによる福音書15章13節、ローマ5章7~8節

 キリスト教の暦には、大切な記念日がいくつかあります。クリスマスに並んで有名なのが、復活祭ではないかと思います。

 復活祭を英語で「イースター」と呼びます。これは、十字架にかかって死なれたイエス・キリストが、3日目に死からよみがえられ、人間の最大の敵である「死」を滅ぼしてくださったことを記念してお祝いする日です。

 イースターは太陰暦に基づいていますので、毎年○月○日というように同じ日ではないのですが、今年は4月4日の日曜日がイースターになります。そして、イースターの前日までの4週間は、受難節(レント)と言って、キリストの十字架に至るまでの苦難の道を思い起こす特別な期間なのです。

 今日はイエス・キリストの受難と復活に触れておきたいと思います。

 私は、30回ぐらいイースターをお祝いしましたが、私の中に、決して忘れることのできない、記念碑的なイースターというものがあります。それはアメリカでの話なのですが、近くの教会が大きな礼拝堂で、壇上をまるで劇場のように飾って、イエス・キリストの生涯の物語をオペラ風にやって見せてくれるのですね。それが実にリアルで、一気に話の中へと引き込まれていきました。

 最も重要な見せ場に入り、辺りが暗くなり、シーンと静まり、その教会の牧師にスポットライトが当たると、マイクを持って語り始めました。

 イエス・キリストが受けられた背中への鞭打ちがどういうものだったのか、重い十字架を背負って坂道を上るときの苦しみがどういうものだったのか、両手両足を釘で十字架に打ち付けられ、はり付けられるときの痛みと苦しみがどのようなものであったのか、十字架刑の惨たらしさを、涙を流しながら話されるのですね。そして、その牧師が次のように言われるのです。

 「なぜイエス・キリストは死ななければならなかったのだろう。」

 「なぜ人々はピラトの前で『バラバを釈放せよ!』と叫んだのだろう。」

 「なぜ罪のないイエス・キリストを誰も助けようとしなかったのだろう。」

 それらの言葉を耳にしたとき、その場に居合わせた当時の人々に対して、心から怒りと憎しみを覚えました。

 すると、その牧師が言いました。

 「ある人は言います。『あれはユダヤ人がいけないのだ。自分たちが神の戒めに背いているのをイエス・キリストに指摘されたから、自分達を正当化するために殺したのだ』と。

 またある人は言います。『あれはローマ人がいけないのだ。残忍で悪に満ちた彼らが、人の命をもてあそんだのだ』と。

 しかし、本当は、ユダヤ人でも、ローマ人でもありません。イエス・キリストを殺したのは、『あなた』です。イエス・キリストは、『あなた』が犯した大きな罪から小さな罪に至るまで、すべての罪を償うために死んで下さったのです。なぜでしょう。それは、イエス・キリストが『あなた』を深く愛しておられるからです。

 『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』(ヨハネ福音書15章13節)と言われる通りです。」

 そのように言われたとき、あまりもの驚きで、声が出ませんでした。

 その時、あの惨たらしいイエス・キリストの十字架の死は、まさに私のためであったということが初めて理解できました。イエス・キリストは、他ならぬこの私を罪の暗闇から救い出すために、私の罪を償うために、身代わりとして十字架にかかって死んで下さったということ、私は自分の罪を悔い、イエス・キリストを自分の救い主と信じて心に受け入れるならば、自分のすべての罪が赦され、永遠の命が与えられ、神と共に喜びに満ちた人生を歩むことができる、ということが、私の中で生まれて初めて意味を成しました。

 それから程なくして、ある聖書の御言葉に出会いました。それは、ローマの信徒への手紙5章7節8節です。キリストが私のために死なれた、ということは、人間の日常的な経験から考えても、実に驚くべきことです。

 7節、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。」

 「正しい人」とは、どういう人でしょうか。それは、神の律法に適った正しい人のことです。人生における優等生です。人生における優等生だからという理由で、そのような人のために、自分の命まで投げ出そうと考える人はいるでしょうか。まず考えられないですよね。

 7節後半、「善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」

 「善い人」とは、人に対して暖かい愛と理解を持って接する人のことでしょう。大変お世話になった人であったり、一生の恩人であったりすれば、そのような人のためなら自分の命を捨ててもよいと考える人は、あるいはいるかもしれません。しかし、いくら恩人だからといっても、「その人のために代わりに死んだ」という話をニュースで聞くことは、まずないですよね。それほどに、他人のために自分の命を捨てるということは、人間の現実においては大変難しいことなのです。

 では、イエス・キリストはどうだったでしょうか。8節に次のようにあります。

 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

 イエス・キリストは、私たちのために死んで下さいました。しかも、「わたしたちがまだ罪人であったとき」にです。「罪人であったとき」というのは、ただ「罪を持っている人」というよりも、もっと積極的な意味を持っている言葉です。私たちが神を無視して自分勝手に生きているとき、あるいは神に敵対していたときということです。神に敵対していた時に、神はご自身の大切な「御子キリストの死によって私たちをご自身と和解させられた」のです。

 なぜ神は、そこまでして犠牲を払ってくださったのでしょうか。皆さんを、そして私を愛しておられるからです。天の父なる神が、「あなたのためなら、わたしの大切な御子を死なせても良い」と言ってくださるのです。御子イエス・キリストも、「あなたのためなら、命を捨てても構わない」と言ってくださるのです。8節にある「神はわたしたちに対する愛を示されました」という言葉、それこそが、イエス・キリストの十字架の死の意味なのです。

 神の私たちに対する愛は絶大です。それはイエス・キリストの十字架において、具体的に、現実的に現わされました。

 イエス・キリストの十字架こそ、神の愛の姿であり、私たちの生きる希望です。

お祈り
 天の父なる神様、今朝、私たちは、イエス・キリストの十字架の死にどういう意味があるのかを知ることができました。それは、私を罪の闇から救い出す、神の絶対的な愛の現れであるということです。罪だらけで、欠けだらけで、どうしようもない私たちを愛してくださり、他ならぬ私のために御子イエス・キリストが御自らの尊いお命を捨ててくださったことを、心から感謝致します。どうぞ私の救い主として、私の心に来てください。私の中に生きて働いてください。私を天国に入れるようにしてくださることを信じます。私の一生涯をあなたの御手に委ねます。どうぞあなたを喜び、あなたに喜ばれる人生を歩めるように導いてください。この祈りと願いを、唯一の救い主イエス・キリストの御名によって御前にお祈りいたします。アーメン。






毎週日曜日は礼拝の日

高知教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週木曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時10分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
木曜日 祈祷会
朝の部:10時30分から12時00分
夜の部:19時10分から20時00分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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