教会員の声(救いの証)N.U.さん

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教会員の声(救いの証)N.U.さん

高知教会の教会員による証しを少しずつ紹介していきます。今回は、N.U.さんの救いの証しをご紹介します。

「救いの証し」
N.U.姉

1.イエス・キリストと出会う前の私
 昭和16年7月に弟は生まれました。私は3歳でしたが、父と二人で洋館の写真館で最後の写真を撮りました。戦地へ父が持っていくための写真です。母と弟は産後のため写っていません。その後、母は実家の祖母と小作人に当てた残りの田畑を暮らしの糧として働いていました。

 忘れもしません。私が4歳の時、田畑の仕事を終えた母は、暮れゆく庭の掃除をしていました。その時、父の伯父が母を訪ねてやって来ました。二人は何かを話していましたが、突然母がしゃがみ込み泣き出しました。いつまでたっても母は動きません。子供心にも、何があったのか母を見つめたまま私も動けませんでした。夕焼けの真っ赤な空の下、動かない母の黒いシルエットが今も瞼に焼き付いて離れません!後で知ったのですが、父の戦死の通知だったのです。この頃から、幼い私の記憶が定かでないのですが、母は現金収入にある仕事を始めました。製材所の事務、その後一駅向こうの農協へ通いました。目が覚めると母は仕事に行って居なく、眠ってからの帰宅で遠いけど往復歩いて行ってました。母の姿を見る事がない日々でした。

 戦争に負けると、アメリカの進駐軍の乗った列車が行き違うため、私たちの村の駅に止まりました。子供たちはお菓子をくれる兵に手を出し、色々の物を貰っていました・・・が、私は、「お父さんを殺したアメリカ人、絶対乞食じゃない!貰うものか」と、意地っ張りの子でした。

 祖母は、男の子は跡継ぎだと、弟をとても大事にしました。私の貰えない物を食べ、大事にされました。おやつも同じ物を同じように貰った時、自分の分がなくなるとばぶれてでも私の分を取りました。私は取られまいと、いつもしっかり守る子になってました。が、大人は

「この子は慾張りだ、にぎってすけてる!」

と言います。悲しかった。誰も理解してくれない・・・

「でも私は悪い事はしてないもん。」

しっかり者の可愛げない子、そんな子供でした。でも、母を思う気持ちは強かったと思います。母に心配を掛けない様に、祖母の手伝いもしました。弟の面倒も見ました。山菜狩りも一人でたくさん取り、隣近所にも分けました。自分のことは自分でする、今の私よりも、この頃の幼い私の方がしっかりしていたかもしれません。

2.救い主イエス・キリストとの出会い
 5年生の秋、母の仕事の関係で高知市に移り住みました。5年の二学期、三学期、そして6年生の1年間、小学校に行き、中学受験し付属中学へ入学しました。付属小学校から上がって来た生徒の一人と親友になりました。彼女の家は、お父様が歯科医で裕福な子だくさんのお宅でした。彼女が物心ついた時、一番上のお姉さんはお嫁に行ってたとのこと、お父様が60歳の頃お生まれになったと聞きました。試験勉強のため彼女の家にお泊りしましたが、なごやかで親切な家族に接し、心の安らぎを覚えました。クリスチャンホームだったのです。こんな事でイエス・キリストのお話を彼女から聞いているうちに、キリスト教に惹かれていきました。高校受験も、清和学園の先生が説明に来て下さり、ここを受験しようと決めました。入学式に初めて来た母は「良い学校を選んだね!」と喜んでくれ、とても嬉しかったことを覚えています。

 親友も一緒に受験し、ずっと仲良しでした。学校では、朝礼の代わりに講堂で礼拝が毎朝あります。普通の高校とは違うなと思いました。聖書の時間があり勉強し、アメリカ人の先生も多く、英語は一日に2時間、文法や会話、英訳、発音はとても丁寧に教えを受けました。

 そんな日々の高校生活のある朝、礼拝後に目を閉じるように言われ、私たちはその通りにしました。

「イエス様を信じる人は手を挙げて下さい!」

私はすぐに手をあげました。静かに時が過ぎ、「目を開けてもいいですよ」と、朝の礼拝は終わりました。

数日経って職員室に呼ばれました。
「あなたは主を信じると手を挙げていましたね、洗礼を受ける日を決めましょう。」

「あ!私は信じているけれど・・・でもまだ洗礼を受けるとは決めていない!どうしよう?どうしよう?」

「でも信じているから受けよう、信仰の自由だもん。」

 私は、佐藤牧師によって洗礼をお受けしました。

「こんなんで良いのかしら、不純ではないだろうか?」

「皆さまのように聖書の勉強もできていない。」

自信がなくなってきました。信じる事だけの気持ちはしっかり持っていました。82歳の年を迎えた今でも、勉強不足はあの学生の頃と同じだと、恥ずかしながら思います。でも主を信じる、それだけは心の軸になりしっかり根付いています。いつも守られ導きに感謝です。

3.イエス・キリストと出会ってからの私
 私の結婚はお見合いです。5回目の相手と式を挙げました。クリスチャンの方とはご縁がありませんでした。日曜日だけは教会へ行かせてくださいとお願いしていましたが、一族の関わる会社で自由はききませんでした。月に2回しか休日はありません。出産し子供を育てながら毎日毎日店や工場、手の足らない所へ行き仕事をする日々です。年に何度か抜け出し教会へ・・・でも知らない牧師に変わっていて、「走り走りに来るのは意味がない。」・・・そのお言葉に私はとうとう教会へ行く事が出来なくなり、ずっと長い間、仕事を終えて床に就く前に祈る事しかない私になってました。疲れがひどい時は、祈る事もなく・・・。

 子宮外妊娠の手術の時です。麻酔のかかったまま、私は夢を見ました。小高い丘の斜面にいました。すぐ少し高めのところに白樺の木が三本見えました。風もないのに枝がざわざわと音を立て、声が聞こえました。

「あなたは、神は寛大だと甘えている。決してそうではなく厳しい方でもある!いつまでも甘えていてはいけない」

という声と一緒に、どんどん圧迫感が強く迫ってくるのです。そのうちぐるぐる渦が巻く中に引き込まれ、どす黒い底にどんどん巻き込まれ、「あーあーあー」どんなに叫んでももがいても、どんどん底へ底へ。底がないのです。

 「Uさん、Uさん」と肩をたたかれ麻酔から目が覚めました。本当にリアルで怖い夢でした。

 「しかし、これは主がこの様にならないために見せて下さったのだろう。」

ありがたくて泣きました。この信仰を守り、早く教会に戻りたいと強く思いました。

 主人の両親を見送り、やっと懐かしい高知教会へ戻れました(2003年4月20日)。毎週牧師の解き明かしに、迷いや悩み、色々直面している問題を切り抜ける道が開き、主が示され主のお助けを実感しています。記憶力も衰え、牧師の話もメモを見なければ忘れている部分もありますが、主を信じ、御側にお召きいただけるように願う日々でございます。

 娘二人が海外に嫁いでいます。外国の方のお力になれる時は、娘たちもアメリカで、オーストラリアで助けていただいているのだと、お礼と感謝の気持ちで接したいと思っています。

 周りの人々を慈しみ、素直に正直に居られる自分でありたいです!罪深く迷える羊、いつも路に迷い主のそばを離れ、やっともとの路を見つけるこのくり返しの人生、反省ばかりの繰り返しです。主に守られ、生かされ、導かれ支えられ、本当に幸せがこぼれ落ちそうです。すべてに感謝し、この信仰の路を進んで願わくはおそばに!今の私の正直な気持ちです。

 教会へのお誘いお声掛けしても、なかなか来て下さらない、・・・難しいですね。夫も「人を誘うな、お前が行くのは許す」と。今、叱られても夫を誘いお話を聞いて欲しかったと悔やんでいます。お声をかけても来るまでにならない・・・本当に難しいです。

 親友は、「一生友達でいてくれたのはあなただけ」と言います。
私もキリストの福音に与れたのは彼女のおかげで大切な親友です。

毎週日曜日は礼拝の日

高知教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週木曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時10分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
木曜日 祈祷会
朝の部:10時00分から11時30分
夜の部:夜の部は現在休止中です
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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