毎週日曜日は礼拝の日
高知教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週木曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時10分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 木曜日 祈祷会
- 朝の部:10時00分から11時30分
- 夜の部:夜の部は現在休止中です
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
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そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。
電話でのお問い合わせなら、088-875-1865まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。
「主の御手に捉えられ」
救いの証
M.N.姉
1.イエス・キリストと出会う前の私
10歳までの私は、学校へ行き、帰れば宿題もそこそこに野山を駆けずり回って遊ぶといった屈託のない日々を送り、真の神の存在も何一つ知らず、夏が来れば近くの神社の夏祭りに行ったり、偶像を拝むことに罪悪感など少しもありませんでした。そんな私に異変が起きたのは4年生の春休み、左足のがどこが痛むのか判らないが痛むようになりました。見た目には何の変化もなく、医者は「成長痛ではないか」と告げました。しかし、痛みは増すばかりでした。3週間あまり過ぎた頃、40度を超える発熱と体中に発疹が出て、大腿部が大きく腫れた状態となり往診を頼みました。「骨髄炎に敗血症を併発している」ので即入院となりました。ペニシリンによる治療が行われたが、熱は下がりません。「ペニシリンが効かないとなると、この薬(アメリカからの輸入品の抗生物質)も効くかどうかは判りませんが、どうしますか。お父さん」の医者の言葉に、「駄目でもいいから試してください」と投与されたこの薬で命を取りとめました。神様は、私がまだ罪人であった時に、御手をもって守ってくださったのだと感謝しています。
2.救い主イエス・キリストとの出会い
私と主との出会いは14歳の時、勉強しながら治療することの出来る施設が出来て、足の治療をすることになりました。そこに入園している姪御さんのためにイエス・キリストの話をするために「ヨセフ物語」などの紙芝居を持って訪ねて来られた南与力町教会のM.S.さんによってもたらされました。最初は物語りの展開の面白さや、話を聞くと頂けるカード欲しさといった状態でした。
当時はテレビのない時代、施設の定理(?)も教職員等の引率がなければできないような頃でした。続けて話を聞いているうちに、聖書を読んでみたいと思うようになっていきました。新約聖書の贈呈本をいただき、読むようになりました。最初に感銘を受けたのは、ヨハネによる福音書9章1~3節でした。
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』
イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」
私たちの周辺でもこの当時、「あの人があんなになったのは…の祟りだ」などという言い回しをする人が割り合い多かったのです。
このイエス様の御言葉は、恵みと憐れみに満ち、光かがやいているではありませんか。
「教会へ行きたい、教会へ行って話を聞きたい」
と思うようになりました。しかし、外出は許されません。病状も再発を繰り越し、発病で休学2年、中学卒業時には病状が定まらず、机を並べた友は巣立って行く。その姿を見送って人に遅れるという自分ではどうする事も出来ないことで悶々とした日々を過ごしたことでした。
4年後に漸く退園。高知教会の分身朝倉伝道所での求道生活を始め、そろそろ受洗を勧められていた頃、又再発で約一年間の療養生活を送り、晴れて受洗。神の国の一員となった喜びは大きいものでした。しかし、受洗後も足だけではなく、まるで病の問屋のように次々と病に見舞われ、気落ちしたり、呟いたり、神様を悲しませることの多い私ですが、主はこんな私を受け入れて下さっていますことに感謝です。
3.イエス・キリストと出会ってからの私
私は几帳面でせっかちな性格です。計画したことはキチンとしないと気が済まないところがあったのですが、度重なる病気を通して、自分の思いではうまくいかないこと、神に御旨に聞くことの大切さを示されました。
『癒すにも時がある』(コヘレト3:3)という御言葉や、
『苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを』(ローマ5:3~4)
『何よりもまず神の国とその義を求めなさい』(マタイ6:33)
の御言葉にあるように、礼拝遵守し、神の近くにいることを喜びとして歩み続けたい。
『わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない』(詩編103:2)
来し方を振り返ってみるに、まだ私が神様を求めていなかった時から、私を捉え、愛の御手をもって導いて下さった主なる神様に感謝あるのみです。