教会員の声(救いの証)R.T.さん

問い合わせ

日本キリスト改革派 高知教会のホームページへ戻る

教会員の声(救いの証)R.T.さん

高知教会の教会員による証しを紹介していきます。今回は、R.T.さんの救いの証しをご紹介します。

「神様のシナリオ」

R.T.姉の救いの証し

1.イエス・キリストと出会う前の私
 私には、父の記憶がほとんどありません。一九四四年、七歳になった年に、産婦人科の医師であった父は太平洋戦争の為、軍医として、グアム島で玉砕したそうです。幼稚園に迎えが来て、両親と二歳違いの弟と四人で過ごした最後の一週間、その断片の想い出と、白衣の父に抱かれた時のクレゾールの匂いのみが幼い私に残されていました。そんな父への憧憬(どうけい)は、叔母達から聞かされた父の姿とあいまって、私の中に理想的な人間像を形作り、私は、今は亡きその人に守られ、その人に喜んで貰えるよう、お嬢様育ちで心身弱々しい母と弟を、父亡き後の大店(おおだな)の大家族の中で守ってゆかねばならないと決心し、家でも、学校でも模範的な子供であることを自分に課していたように思います。

2.救い主イエス・キリストとの出会い
 小学四年の秋頃、一番仲良しだったN.T.ちゃんという、やはり父親がシベリアに抑留されたままの同級生が誘ってくれて、升形の大きな教会の日曜学校に行きました。父の家は勿論、母の実家も土佐和紙を扱う卸問屋で表座敷には立派な神棚と仏壇があり、何かと言うと皆が集まって拝むことが当たり前という環境の中で育っていた私が、どういう経過を辿っての事だったのかは思い出せませんが、確か、その年のクリスマスだったでしょう。聖誕劇で羊飼いの役をした覚えがありますから、何回かは足を運んだでしょうに、どんなお話を聞いたのかは、少しも覚えていません。ただ、きっと、その頃に覚えただろう子供讃美歌のいくつかは、今でも空で歌えます。劇や音楽が好きですから、きっと教会は楽しい所と思っていたのだろうという気が致します。演劇や音楽との係りは、今日までに続く私の生涯に色々な形をとって現わされて与えられたものの一つであると思えますが、それも今思いますと、あの頃から私を教会へと向かわしめてくださった神のご配慮の一つだったのではないでしょうか。

 中学高校一貫校に入り、中学三年の時、同クラスだったT.Y.さんと両家に泊りがけで行き来する程親しくなりました。ある夜、期末試験勉強の為、出向いていた彼女の家の茶の間に、静かに踞(うずくま)っている四、五人の大人の人の姿を見ました。何だか暗くひそひそとした感じを受け、黙って通り過ぎねばいけないような雰囲気だけは、今もそのまま感じられるようなひとこまでした。

 後になって、彼女のご両親が、何と私が初めて足を運んだ升形の大きな教会、日本基督教団高知教会の信者さんで、お父上は長老さんだと知って、本当に驚いてしまいました。その後、何故か私達は当時とても盛況だった土佐教会の青年会に出席し、夏のキャンプにも参加していましたが、担当の先生が、「Yさん(私の旧姓)は、いつもYさんの横や」と評されたように、私はただ彼女について行ってるだけで、殆ど積極的に神様やキリスト教を知ろうとしてはいなかったもののように思われます。

 ところが、またしても思いがけないことが次々とありました。高校を卒業した私に、母は短大ならということで上京を許してくれました。高校三年間を受け持ってくださった先生の影響で英文科をと探して入学出来た短大は、キリスト教系の学院だったのです。諸々の式典は勿論のこと、毎日、礼拝の時間もあり、確か宗教学は必須科目に入っていたと思います。それなのに、良く言えば、この学校は自由な校風を有していたのでしょうか、礼拝出席は個人の自由でしたから、私は友人達と中庭の芝生での語らいの一時を楽しんだり、勝手気ままに過ごしたりしてしまっていました。当時の私の周りには、誰もクリスチャンは居ず、クリスチャンである筈の先生どなたも積極的に信仰の道に関するお勧めをしてくださったという記憶がありません。

 そんな二年間もあっという間に終わり、帰省した私を待ってくれていた母の住居が変わっていたのです。私達母子三人の為に伯父の建ててくれた家は、高知の中心地にあり、私が高三の時には、少し西方のやや静かな土地に越していたのですが、今度はもっと西方に当たる、母の実家、上町四丁目、当時は通り町(とおりちょう)という場所に移転していました。

 母の実家は、その通り町四丁目の角地に建つ昔ながらの典型的な商家でした。すぐ裏には大好きな鏡川があり、夏休みともなると、可愛がってくれていた祖父母の家に泊まり、叔父や叔母と一緒にその川で泳いだり、近くの神社の神祭に行ったりして過ごしていましたが、まさか、そこに住むことになるなどとは思いもしないことでした。その頃、高知市の計画した区画整理によって、角地にあった祖父母の家は、大きく変化することとなり、元の応接間を移築して、それにキッチン等をつけ加え、小さな住居を離れの二階へと移した所が、母と私の新居に丁度いいということになって決まったことなのでした。

 そうして通り町四丁目に住むことになってみて初めて気づいたのですが、何と五軒先に教会があったのです。教会といっても、普通の古い家のままの建物でしたから、歩きながら注意して見なければ、そこがキリスト教の伝道所とは気付きにくかったのです。

 初めてお訪ねした日のことなども、もう六十年以上も昔のことゆえ思い出せませんが、牧師先生ご夫妻は、お若くて、二人のお子達も幼くて、家の近い私は何かと言えば訪問させて頂いていた記憶があります。日曜日も礼拝に通う信者さん達の誰かと御一緒したり長老宅のお昼に招かれたり、みなさんと親しくお交わりして頂く中で、ごく自然な形で、まるで敷かれていたレールに沿って行って、たどり着いた所であったように、1958年のクリスマスに、私は洗礼を授けていただきました。私の目には、ごく自然にしか見えなかったキリスト者への道は、神様の永遠の御計画に従ってのことだったのだと、今はよく理解できます。私は当然のように導かれて、翌年、日本基督改革派高知教会設立式が行われた、この教会に通い、婚約式も結婚式もして頂くことが出来ました。

3.イエス・キリストと出会ってからの私
 あれからもう半世紀はとうに過ぎてしまいました。結婚と同時に高知を離れ、平凡なサラリーマンの妻の生活を望んでいた私に与えられたのは、全く真逆と言ってもいいような、波瀾に満ちた、予期せぬ出来事を幾度も経験することになった四十年の年月でした。その時その時を、無我夢中で、只、何とかやり過ごすことで精一杯でした。手放せるものを手放してどうにか落ち着き始めた二千年頃、やっと私は「第一のものを第一とする」生活、神様との出会いの意味を悟らされました。

 今もう八十の坂を四度も越して、改革派高知教会発足当時を知る一番古い現役信徒として、日曜日毎に喜び勇んで上町四丁目までバスに乗って行かせて頂いています。こんな素晴らしいシナリオを用意し、お導きくださった神様に、心から感謝するばかりです。救いの恵みは、老いと共に深く身に沁みます。
聖書のコリントの信徒への手紙二 四章一六~一八節、

「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」

と語られている御言葉に励まされ、聖霊の助けを祈りながら、一人でもの、神様が会わせてくださった方に、この尊い、かけがえのない福音の恵みを、お伝えしたいとの願いに、日々心かられる想いでいっぱいです。

 ヨハネによる福音書一五章五節に、

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」

と、主はいつもやさしく、力強い御手を、弱い私達のために差しのべていてくださいます。どんな時にも決して離れることなく、主にある、真の喜びと感謝の日々を、終わりの日まで、ひと足、またひと足と、賛美しつつ歩ませて頂きたいと思っています。


毎週日曜日は礼拝の日

高知教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週木曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時10分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
木曜日 祈祷会
朝の部:10時00分から11時30分
夜の部:夜の部は現在休止中です
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

お気軽にお問い合わせを

「一度礼拝に出席してみたい。」

「教会に行ってみたい。」

「でもどうしたらよいかわからない。」

そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。

電話でのお問い合わせなら、088-875-1865まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。